3.価値
- Bio Sinfonia
- 2012年10月10日
- 読了時間: 4分
更新日:9月25日

「価値」という価値観 ―‥
これほど、わたしたちを惑わせる虚像があるでしょうか。
価値がある、価値がない、
価値が高い、価値が低い・・
モノにつけられた値段から、「私の価値」といった人間性に対する評価まで。
「価値」という概念が、わたしたちの意識の中に幅広く浸透しています。
そこで、今日お伝えしておきたい真実は、「価値という価値観」など【幻想】でしかないという事実です。
「ほう、この焼き物は素晴らしいですね」
「おや、あなたにはこの価値が分かるのですね」
‥とそんな調子で、単なる一つの「観察点の個性」を表現するために使われていた粋な言葉が、いつしか「私の価値って‥」という、生命の存在に対してまで乱用されるようになってしまったのは、一体どうしてなのでしょうか?
これははっきり言って、【価値という幻想】の使いどころを、はき違えています。
人間に対してだけではありません。
動物にも、植物にも、鉱物にも、太陽の光にさえも、いつからか全ての存在に対して「価値」という概念が当てはめられるようになってしまいました。
「この植物には価値がない」
「この虫には価値がない」
「この木には値打ちがない」
「私なんて価値がない」‥と。
このように、生命の存在に対して「価値」という概念が当てはめられてしまうのは、真実に対する大いなる冒涜です。
価値とは、あなたの眼差しが対象物を観察する際、「その観察点をどこに持ってくるのか?」によって、自由自在に見いだされる"オプション"です。
あなたは【存在】であって、“オプション”ではありません。
大輪の花についた雫のきらめきは、あまりにも美しく、思わず心を奪われますが、それは照りつける太陽の熱に召され、そっと消えゆく運命です。
その輝きは、美しい“オプション”です。
ですが、苦しくなってしまうほどに、「価値」という価値観ゲームに熱中しないでください。
透きとおる風や、まばゆい光が、あなたの頬にさわって通りぬけるように、それらは気まぐれで、一瞬で、可愛らしい"オプション"なのです。そういった遊びなのです。
「自分には価値があるのだろうか?」と自問自答したくなったとき、言いようのない不安感に襲われるのは当然です。
「存在価値を問う」などという見当違いな問いに対する答えは、元々どこにも用意されていないからです。
真実とは関係のない「概念の遊び」を、あなたの【存在】に対してあてはめて考えること自体、筋違いなのです。
この世には、「あなたの価値」に対して不安に思うようなことなど、一切なにも存在していません。
それでもなお、どうしても「自分には価値があるのか?」という得も言われぬ不安がどこからともなく湧き上がってくるならば、そのときは心の中でこう呟いてみてください。
「自分はここに存在している」と。
そして、呼吸を続けてください。
次に、そこにある、【空気というもの】を、感じてみてください。
今この瞬間も、あなたを足元から支え続けている、【大地というもの】を、肌で感じてみてください。
空を見上げて、どこまでも続く【空というもの】を感じてみてください。
あなたは、「この空にはちゃんと価値があるのだろうか?」という疑いをお持ちでしょうか?
「この空気には、存在価値があるのだろうか?」「この大地には存在意義があるのだろうか?」などという疑問を持てますでしょうか?
そのような感覚など、持っていないのだとしたら、きっと大丈夫です。
ここに『空気』が在り、足元には『大地』が在り、上には『空』と呼ばれるものが、どこまでも広がって在ります。
ここに『あなたの肉体』が在り、そこに『あなたの精神』が宿り、そして『魂』と呼ばれるものが、どこまでも広がって在ります。
【存在】とは、そういうものです。
もちろん、この空気や大地が、どれほどの価値を秘めているか?―…それは「価値」などという尺度の中では計り知れないものであることくらい、ちょっと不安になったあなたの心であっても、理屈抜きで感じられるはずです。
いつもいつでも、称えるべきは、あなたの【存在】です。
あなたの価値を、笑ってください。
あなたの価値を、遊んでください。
あなたの【存在】は、幻想によって揺らぐことはないのですから。


