「毒素としてのウイルス」が存在するって本当? コメントにお答えします!
- Bio Sinfonia
- 9月6日
- 読了時間: 31分
更新日:11月8日

今回は、動画投稿サイトに寄せていただいたコメントについて特集させていただきます。
(この場で返信する理由については、こちらで書いております)
それでは早速、コメントに返信していきますね。

こちらこそ、いつもありがとうございます。
いつも読んでくださっているのでしょうか? 感謝です!
では、本題に入ります。

コメント内に書かれている要点を、そのまま抜粋しますと、
◆ウイルスの定義がそもそも間違えている
◆病原体としてのウイルスは存在しないが、毒素としてのウイルスは存在する。
◆ウイルスという単語の語源は毒素
◆ウイルスの定義を病原体から毒素に改める必要がある
◆感染とは毒素の暴露であり、集団感染とは集団暴露である。
と、書いてくださっています。
それでは、これらを4ステップで、ひとつずつ確認していきましょう!

1.「毒素」としてのウイルスは存在する?
はじめに、「病原体としてのウイルスは存在しないが、毒素としてのウイルスは存在する」というご意見について、確かめていきしょう。
まず、前半部の「病原体としてのウイルスは存在しない‥」についてですが、これは本当におっしゃる通りですね。
ウイルスは存在していませんから、「病原体としてのウイルス」が存在しないのはもちろん、さまざまな「●●としてのウイルス」も存在しません。
生物兵器としての「ウイルス」も存在しなければ、人工物としての「ウイルス」も存在せず、エクソソームとしての「ウイルス」も存在しませんね。
大前提として、ここで言う「~としての」という日本語は、「ある対象が持つさまざまな側面のうちの1つを強調して述べるときの助詞」です。
例文で例えると、
・母親としてのあなた
・父親としての僕
・反逆者としての私
・毒素としてのウイルス‥
これらは、存在していることが前提になっている何かの、「特徴」や「役割」を述べている表現です。
なので、頂戴したご意見のうち、「毒素としてのウイルスは存在する」という部分は、純粋な誤情報になってしまいますね。
存在していなかったはずのウイルスが、「毒素」という役割や特徴を持って存在することになる・・・
これは一体、どういうお考えからなのか‥?
それが分かるかもしれませんので、さらにコメントを見ていきましょう。

2.ウイルスの定義を「毒素」に改める必要がある?
続いて、「病原体は存在しないが毒素は存在する。ですから、ウイルスの定義を病原体から毒素に改める必要がある」というご意見について確認してみましょう。
ここでは、「病原体は存在しない」としっかり書いてくださっていますので、「微生物が病気の原因ではない」ことはご理解いただいているものとして、進めていきますね。
しかしながら、次の一文で、「毒素は存在する」ので「ウイルスの定義を病原体から毒素に改める必要がある」という流れになってしまっています。
存在しないウイルスを、「存在する毒素」へと定義を改めるべきとのご意見ですが、ウイルスの挙動の定義は、この世に存在しているあらゆる毒とは異なっております。
一般的な有害物質の挙動とは違うからこそ、そんなモノ(=ウイルス)は存在しないと言えるわけですよね。
単に、「人の身体に侵入して、病気にさせる何か」が、ウイルスなのではありません。
ネット上では、病院や保健福祉関連のサイトなどが、「ウイルスってなに?」といった情報を掲載し、一般人やお子さん向けに簡易的に説明していますが、それらは「定義」とは限らないので要注意です。
たとえば、2025年8月現在、Google検索を使って「ウイルスとは」というワードや「ウイルス、意味」というキーワードを入力して、一番上に出てくるサイトがこちら👇
ここで書かれている「人間の身体に入って、病気にさせる病原体の一種をウイルスと呼びます」という説明は、感染対策の一環として、子ども向けや素人向けにザックリ書かれた文章であって、ウイルス学上の正式な定義が書かれているわけではありません。
なので、こうした省略された話を見て、
「巷では『病原体の一種をウイルスと呼ぶ』と言ってるけど、病原体は存在しないのだから、正しくは『毒素の一種をウイルスと呼ぶ』じゃない?そう定義を改めるべきでは?」
‥などと、もし勘違いされてしまうと危ないですね。
都合よく省略された説明ではなく、学問的に定められている定義を見て物事を検証していく必要があります。
ウイルスの特徴として、ウイルス独自の「複製・増殖」の仕組みがあるからこそ、この世の様々な毒とは異なっております。
そして、そんな独特の挙動を説明したのが、ウイルスの「感染」という概念です。
しかし現状、「毒素」という言葉自体には、「感染する」や「伝染する」といった挙動の性質までは、特徴として付随していません。(専門用語としても、非専門用語としても)
そのため、ウイルスを「毒素」ということにするなら、「毒素」の定義まで改変するんですか?・・・ということになりますかね?
「どの言葉の定義を、どこまでいじくり回すか?」という、いかにもWHOが喜びそうな発想です。
なぜなら、今の定義のままではウイルスが存在しないために、このままいけば世界中の一般市民層にも「ウイルスが存在しない事実」がバレ始めるのは、いずれ時間の問題になってくるからです。
そこで、強引にでも存在させるために、ウイルスの定義を「毒素」へと改変することは、体制側にとってはこの上なく好都合ですね。
そもそも、この地球上で本当に誠実な心を持つ「真の科学」を重んずる人々は、ウイル学が定める一定の定義があるからこそ、その定義に沿って物事の真偽をひとつずつ丁寧に検証し、
その結果、
「あなた方が自分で定めた定義を満たしていないものを不当にウイルス認定し、何の意味もないPCRを行って、偽のパンデミックを起こしましたね。犯罪的行為ですよ」
と、科学的に正当な方法で訴えることができるわけです。
それを、いきなり定義を変えたら、ただの「ちゃぶ台返し」のチート行為になってしまいます。
体制側にとっては、ウイルスの定義が「毒素」になったなら、ウイルスが存在していなかったことなど全部すっとぼけて、さらに堂々と偽パンデミックを起こせますから、飛びつきたいくらいのアイディアかもしれません。
ですから、
悪魔ではない、カルトでもない、権力者たちの下僕でもない善良な市民の私たちは、「定義を改めるべき」などと訴える側であってはならないはずです。
「改める」という日本語には、まるで「正しいことを行う」かのような言葉の響きがありますが、ここで言うところの「改める」の実質的な内容は、ただの不正行為です。
不正行為を、おすすめしてはいけないですよね。
ですが、もしそれが「正しいこと」のように感じてしまっているなら、それは頭の中の考え方が「誰かにとって都合のいいもの」になるよう感化されてしまっているサインかもしれません。
ワクチンを打つ行為が「正しいこと」であるかのように思えてしまっているときのように、何らかの「正しさの仮面」をかぶった理論に飲み込まれてしまっている可能性があります。
ですので、「ちょっと道を外れてしまったな」と気づいたときには、その時点で立ち止まって、来た道を振り返り、「自分はどんな情報源から影響を受けてしまったのかな‥?」というところをクリアにして、今後は情報を得る場所を厳選していけば、ここまでのこともすべが意味のある学びになってくれると思います。
どんな経験も、自分の力で意義のあるものにできますから、大丈夫です!

そして、私たちは、「実際の毒」と「存在しないウイルス」との違いを、明確に区別して理解しておくことも大切です。
あるいは、「実際に存在する粒子」と「存在しないウイルス」との違いを混同せずに理解しておくことも、重要なポイントです。
そもそも、感染とは、単なる「毒素の付着」や「毒素の移動」のことではありません。
単に、ファブリーズのような合成化学物質が鼻の穴に入ってきたり、喉の奥まで入ってくるような現象とは異なります。
辛い症状を引き起こす柔軟剤のさまざまな成分が、環境中から自分の体内へと入ってくることでもありません。
そうした合成化学物質は、「複製」もしなければ、「増殖」もしません。
生命に似たような挙動はしない、人工的な毒です。

また、ウイルスの感染における「複製」や「増殖」は、細菌や真菌などの微生物の挙動とは異なりますので、それらと混同することもできません。
ウイルスの「複製」と「増殖」の方法(だと言われていること)は、生命体である細菌が細胞分裂するような増殖や複製の概念とは異なっています。
たとえば、真夏の炎天下に弁当を放置してしまい、食材が著しく劣化して人間が食べる時期を通り越すと、今度はさまざまな微生物がそれらを分解し始めるための活動を始めますね。

人が食べるのに適さないものを口にしてしまった場合は、お腹をこわしたり、いわゆる食中毒のような状態にも陥ることもありますね。
このような場面で働く地球の分解者たちは、人間が生み出した劣化したゴミを分解するために、自らの体を細胞分裂させながら、そこにある汚物を大地に返す働きをしてくれるわけですが、こうした挙動は、ウイルスの定義として定められている「複製」や「増殖」の方法とは、まったく異なる仕組みです。
ウイルスは、こうした挙動とは異なり、「宿主となる生命に寄生することでコピーをつくって増殖するのだ」と言われているので、微生物のような分解者の特徴と同じくくりにすることもできません。
「複製」や「増殖」という、同じ言い回しがあてがわれてはいるものの、そこにある挙動・特徴は、まったく別ものです。
微生物の「増殖」や「複製」には、生命現象に則った細胞分裂の仕組みが働いていますが、その一方で、ウイルスはそれらとは違います。
ほかにも一つ、ウイルスとは違う、目に見えない者たちの生態と「毒素」との関係を挙げてみましょう。
例えば、森の中の朽木は、目に見える虫たちによって徐々に代謝されながら、最終的には微生物たちによってさらに細かくされ、形が見えなくなるほどの最小単位にまで分解されていきます。

その光景は、生き物たちのレストランや美術館と呼びたくなるほど、見事なものです。
これに対して、木は木でも、これが合成化学物質たっぷりの「合板」だったらどうでしょう?
たとえば、集成材やパーティクルボード、接着剤や塗料など、合成化学物質がたっぷり添加された家具を、お部屋の壁際にレイアウトしたとします。

すると、高温多湿の日本という国では、頻繁に「掃除」や「模様替え」をして、「換気」と「除湿」を徹底していかなければ、やがて合板の経年劣化によって、壁に接している側からカビが生えてきます。
そうなると、そこに使われている接着剤や化学溶剤の成分もろとも、新品だった頃の刺激臭とはまた違った、得も言われぬ不快な臭気が放たれることでしょう。
しかし、これは、劣化した有害物質の分解作業を担ってくれている微生物にしてみれば、 そもそもが自分の体の表面積をすべてその「有害物質の海の中」にあずけ、その上で有害でまずいものを食わされているわけなので、それらを代謝する過程で出てくる分解生成物も「始末の悪いもの」になるのは至極当然のことです。
人間だって、毎日のように人工甘味料入りのジュースを飲み、化学合成された加工食品ばかりを食べ、ファブリーズのようなケミカルスプレーを愛用し、髪の毛は赤や緑や金髪やらのケミカル成分で汚染しているとしたら、私たちの出す便や尿もまた毒素臭を放ち、体の表面積が毒素にまみれている分だけ、体臭もそれなりの激臭になってくるでしょう。

それは、小さな生き物にとっても同じことです。
そもそも有害なものをインプットさせられたなら、代謝を通してアウトプットされるのも何かしらタチの悪いものになるのは自然なことです。
家具の裏にびっしり生えたカビを見て、「このカビがぁぁ‥!」と言いたくなる気持ちもわかりますが、そもそもが合板の家具をお部屋に招き入れた時点で、それ自体が有害化学物質の発生源なので、「健康」という意味では選択が間違えていたと言えます。
このように、微生物というのは、人間が地球を汚染した行為の後始末における最終形態を担ってくれているとも言えるわけです。
しかし、このようなカビによるアウトプットの結果が、世間一般では典型的な「毒素」のひとつの形として広く認識されています。
こうした私たち人間の選択や行動によって、そこにいる微生物が「分解対象物」を代謝した結果としての毒素の形も、ウイルス学で言われているウイルスの性質や振る舞いとは根本的にまったく違っていますね。
そしてもちろん、ウイルスの挙動は、いわゆる「自然毒」とも異なります。
ムカデの毒やヘビの毒など、自然界の生き物が生成する毒素である天然の化学物質とも挙動や性質が違いますね。
貝やフグなどの動物性の毒素とも異なりますし、トリカブトなどに代表される植物性の毒素とも異なります。
こんなに美しいスイセンにも毒がありますが、こうした自然毒である天然の有機化合物の特徴は、ウイルスの定義と何も一致しません。

以上のようなことが、この世に「存在しているもの」と「存在していないもの」との歴然とした違いでもあります。
微生物とは根本的に違う、また、人間が人工的につくる石油系の合成化学物質とも違う、
そして、自然界にある毒素、つまり動植物・昆虫や爬虫類・キノコ類が持つ自然毒とも違う。
さらに、私たちの体内で細胞がはじき出す小胞や、細胞から出てくるあらゆる排出物とも違う・・・
これに関しては、よく電子顕微鏡写真に写っている、さまざまな小胞の写真が「ウイルスの証拠」だとして使い回されていますが、それらの粒子に複製能力・感染能力・伝染性・病気を引き起こす能力などがあると証明されたことはありません。
なので、もちろん「ウイルス」と呼べませんし、「ウイルスと呼ばれるもの」にもなりません。
ですから、写真に写ったエクソソームのようなものに矢印をつけてみたところで、それらはウイルスにはならないということです。
役割が未解明の小胞やら、細胞からの排出物やらに矢印をつけても、それらもウイルスにはならないということです。
矢印で示されているソレは、ソレであって、ウイルスではありません。
ウイルスだと言うのなら、定義で定められた構造体の粒子に、感染性があって病気を引き起こす能力があることを科学的に立証しなければなりません。
さらに、そうして証明されたその粒子が、人から人へうつるのだという「伝染性」があることも証明しなければなりません。
しかし、いつまで経ってもただ写真を撮って並べているだけで、そのことが何も科学的に証明されてはいないのです。
どの粒子も、「ウイルス性である」ことなど、証明されたことはありません。
このような理由からも、定義さえ変更すれば、エクソソームが「ウイルスということになる」ということにはならないです。
歴史上、その存在が確認されたことのない「ウイルス」を、定義を変えて「存在する毒素」というカテゴリーに仲間入りさせてしまったなら、、、
そしたら、一体どんないいことがあるのか‥?
おそらく、ビル・ゲイツなら、満面の笑みを浮かべそうですね。

3.ウイルスの定義がそもそも間違えている
次に、「ウイルスの定義がそもそも間違えている‥(中略)‥ウイルスの語源は毒素だそう‥」という部分について確認していきましょう。
まず、後半の「ウイルスという単語の語源は毒素」というコメントについては、まさしくその通りですね。
Dr.サム・ベイリーの動画にも出てくる話題ですし、辞書を引いてみても一行目か二行目にそのように掲載している会社は多いです。
しかしながら、「語源」と「定義」は、また違うものですね。
語源がそうなっているからといって「定義までそうなる」とか「現在の意味もそれと同じになる」・・というわけでは必ずしもないのが、言葉というものですね。
なかには、「語源」とはほぼ正反対の意味で使われている言葉もあるほどです。
だからこそ、「語源学/ごげんがく」というものがあり、単語の起源や歴史を研究し、時間の移り変わりとともに変化した意味合いや構造などを探求する学問分野がありますよね。
それらが「語源辞書」にまとめられていますので、私たちもそれらを見て時代の変化や、文化の変化に伴う言葉の意味合いの移り変わりを辿れるようになっています。
それで、「ウイルスの定義が間違えている」とのことですが、そうは言っても、これはあくまで学問の中で定められている「定義」となっています。
ですので、それを「定義した側」が存在します。
ここで言うなら、「ウイルスの定義」を定めているのは、脈々と続いてきた医療体制を取り仕切る側ですね。
「ウイルス学」という学問をまとめている側が、「ウイルスの定義」を定めています。
一般の大衆ではありません。
ですので、「語源」を引き合いに出すなどして大衆文化が持つ言語学的な側面を世の中に訴え、言葉の意味を草の根から修正させるなどの下剋上的ムーブメントを起こせるタイプの用語ではありません。
学問の専門用語だからです。
もちろん、言葉には、スラングも含めて一般の民衆から育まれていくタイプのものも多数ありますが、この場合は、学問上の「用語の定義」であり、いわば「学術用語」にあたります。
庶民の文化を反映した一般用語とは違います。「ウイルス」という用語がいくら有名でも、です。
たとえば、似たようなものに、スポーツの専門用語などもありますね。
そのスポーツを作った側が定めている用語やルールあり、それを取りまとめる協会側によって「用語の定義」が定められています。
あるいは、音響関連の用語でも服飾関連の用語でも、なんでもそうですが、専門分野の用語の定義というのは、専門的な世界の中で出来上がっているもので、なおかつ「語源」とかけ離れることは何ら珍しいことではありません。
そのため、「語源」と違っているから間違いだという理屈は通りませんし、「語源」に合わせて定義を直せという外野からのご希望とは関係なしに出来上がっているのが、専門分野の世界です。
「言葉としての文化が失われているから、語源に立ち返って見直そう」という風に、言語学的に訴えるものとは、毛色が違うものとなっています。
なので、「ウイルスの定義を変える必要がある」というならば、それをするためにはウイルス学の分野に進んで研究論文を書き、それが世界有数の権力者に認められ、定義を作る側(定義を管理する側)になる必要があります。
しかし、そうやってもし定義を変更できたとしても、それは人々を不幸にするウイルス学の虚構を別の形で守っていくことになり、存在しない「偽ウイルス物語」を新しい形で発展させる新しい波になってしまうというわけです。

ただし、念のため、誤解のないよう補足させてもらうと、私自身も「言葉の語源」には、ある種の真実が宿っていると思っていますよ。語源を知ることは、とても素敵な探究ですよね。そういう意味では、コメント主さんと共感し合える部分があるかもしれません。
ですが、今回の「語源がそうだから、ウイルスの定義を●●する必要がある」という考えについては、さまざまな悪行を助長してしまう上に、偽パンデミックを起こしているカルトたちの思うつぼになってしまうということです。
あわせて、誤解のないようお伝えさせていただきますと、私自身が取り組んでいる活動は、特に「ウイルス学の何かを変えよう」や「体制側に挑もう」などの戦いを挑む活動とは異なっております。
「他を変える」ことや「向こう側を変える」ということにベクトルが向いているのではなく、基本的に「自分の人生を、自分で変える力を養う」ことにベクトルが向いている活動です。
ですので、権力者の動向に依存しません。
自分の人生を成長させていくために、権力者の介入は必要ないからです。
自分にとって本当に知る価値のある物事を、自分自身が根本的に理解していく中で、意識が自由になり、自分だけでなく周りにいる人々にもその波紋が自然と伝わっていくこと、
そういった自分の内側に内在する力に、目を向けていくための活動となっております。

4.感染とは毒素の暴露のこと?
それでは、最後のコメント「感染とは毒素の暴露であり、集団感染とは集団暴露である」というご意見について見ていきましょう。
(前提として、ウイルスの定義のお話をされているので、2通目のコメントの意味も「ウイルスの話」をされているものとして進めますね)

では、「感染とは毒素の暴露」のことなのか・・?
いいえ、違いますよね。
ウイルスの感染には「実在するウイルス」が必要で、なおかつ実在するウイルスにおける「複製・増殖」という感染を成立させるための現象が伴う必要があります。
なので、単純な「毒素の暴露」とは異なりますよね。
それを「同じだ」「そうだ」というならば、関連用語の定義までいじらないとおかしくなってきますが、そのような強引な改変は、不正行為をし続けたいカルトの方々に喜ばれてしまうだけですね。
また、「集団感染とは集団暴露である」とのご意見については、まず「ウイルスの感染」という現象が証明されたことがないため、そのようにイコールで結ぶことは、やはり問題になってしまいますね。
そもそも、これまで「個人のウイルス感染」が証明されたことはありませんから、集団でも証明されたことはありません。
証明されていないものを集団化させたら、急に「集団感染として証明された」ということにはならないです。
証明されたことがない現象を、いきなり「・・とは~」という接続詞を使って、「毒素の集団暴露」とイコールにしてしまうと、存在していない現象を、いきなり存在化させることになってしまいます。
同様に、コメントの前半部、「感染とは毒素の暴露であり・・」という、ご意見のところもそうです。
ウイルスの【感染】という現象がこれまで証明されたことがないのに、「毒素の暴露である」と言ってしまうと、いきなり存在し始めることになります。
「毒素の暴露」は【感染】ではありませんし、そんな証明されたことのない【ウイルスの感染】という現象は、「毒素の暴露」とイコールではありません。
そのため、純粋な誤情報や偽情報になってしまいます。
しかし、代わりに、次のように言うことはできると思います、
「ウイルスの集団感染はあり得ない。なぜなら、歴史上『ウイルス』が発見されたことはないし、そのウイルスの『感染』という事象も証明されたことがないからです」と。
そして、「ウイルスの集団感染」という現象はありませんが、確かに「毒素の集団暴露」という現象なら、もちろん存在しますよね。
これに関しては、たくさんの切り口がいくらでもありますが、ひとつ例をあげるだけでも一大トピックになってしまいます。
たとえば、
小中学校、高校などの校庭まわりや花壇まわり
たくさんの人々が行き交う駅のロータリーや遊歩道
あらゆる公共施設、複合施設の周辺管理・・
などで、シーズンごとにまかれる除草剤は、「毒素の集団暴露」という現象を引き起こす可能性がありますね。
無味無臭なので、誰もそこに除草剤がまかれているとは分からず、たくさんの人が同じ時期になんとなく具合が悪くなって風邪のような症状に陥ることがあっても、まさかそれが「除草剤の影響」だったなんて、わかりようがないでしょう。
また、その空気を「遠くから吸ったのか、近くから吸ったのか」、「一瞬だけ吸ったのか、長く吸ったのか」・・などによって、症状が重く出たり、軽度で済んだりと、風邪のようなバリエーションが出てくるでしょうし、もちろん具合の悪さなどほぼ何も感じない人もたくさんいるでしょう。
実際、世の中には、除草剤の散布を「仕事上の義務」として仕方なく担当されている方ではなく、好き好んで趣味でまく人も多いわけですから、そういう方々はすこぶる体が強くて本当にうらやましいなと思います。
(もちろん、突然ガンを宣告される可能性も高いでしょうが)
さらに、「子どもなのか、大人なのか」によっても影響の受け方は異なりますし、「体が弱い人なのか、すこぶる健康体なのか」によっても、影響の受け方は異なります。
いずれにせよ、生命に対して殺傷能力の高い純粋な毒が、これほど大量に世の中に出回っているというのに、それらがまるで毒としては「存在していない」かのように扱われている、これこそが本当の異常事態です。
この世は、「存在しているもの」と「存在していないもの」との扱いが真逆なのです。
実際に「存在している毒」が「存在していないもの」のように扱われ、現実には「存在していないもの」が「存在している脅威」だとして扱われています。
ですので、除草剤の例に挙げられるような純粋な「毒素の暴露」が、架空の「集団感染」という概念に置き替わり、「存在しないウイルスのせい」や「存在する微生物のせい」ということになっている可能性は「高い」というどころの騒ぎではないと思います。
(私個人的には、実際に体験しているからですね)
そして、今述べた除草剤は、あくまでひとつの切り口であって、「毒素の集団暴露」になりうるほかの例は、まだまだまだまだ‥たくさんありますよ!
まったくもって、除草剤だけで済む話ではないのです。
そのため、「これだけが犯人!」という風に視界を狭くすることは絶対にできません。
なので、今後も、いろいろな視点からお伝えしていきますね。
また、食中毒に関しても、 個人の食中毒であれ集団での食中毒であれ、そこで起きているのは「人から人への伝染」でもなければ「ウイルス感染」でもなく、 物理的な毒素や有害物質が体内に入ってきたことによる様々な体調不良です。
しかし、食中毒の事例は、多くの死者を出している痛ましい歴史的事件も含め、ひとつひとつ検証していくと見過ごされている驚くべき側面も浮き彫りになりますので、いずれ特集記事として取り上げたいなと思っています。

こうして振り返ってみると、今回のような概念は、ちょうど2~3年前に一度は盛り上がった話題かなと思われます。
このような論調こそが、目覚めそうな市民の頭を再び催眠術にかける王道のテンプレートになってしまいます。そのような懸念については、すでに2023年に以下の記事で取り上げています👇
これらの思考パターンの興味深いところは、「ウイルスは存在しない」ということを、一旦は受け入れているところです。
ですから、ウイルス学の問題点を、いくつか断片的に理解した上での、思考の行き着く「別ルート」なのかもしれません。
ウイルス学の実験では、かねてより対照実験が行われていなかったことや、あるいは対照実験は行われていても適切なコントロールが設定されていないこと。「実験デザイン」が適切でなく、コントロールの着眼点を誤っているせいで、コントロールになっていないこと。
これらは、ウイルス学全体において、コントロールという概念が適切に機能していないことを示していますが、こうした実証実験におけるウイルス学の欠陥については、もしかしたらご理解いただいた上での何かなのかもしれません。
あるいは、コンピューターを使った遺伝子配列の「登録&検出」詐欺の循環論法については、ご理解いただいた上での何かなのかもしれません。
しかし、いずれにせよ、そこにある基本的な考え方としては、
「ウイルスは存在しない!
しかし、ウイルスと呼ばれるものなら存在する」
というものの、あらゆるバリエーションになっているようです。
よくあるパターンとしては、「ウイルスは存在しない、しかし‥!」という切り出し方で始まり、「しかし!」のあとに続く例としては、
・人工ウイルスなら存在する
・生物兵器としてのウイルスなら存在する
・エクソソームとしてのウイルスなら存在する
‥などと続きます。
流行というのは、ブーメランのように定期的に戻ってきますね。
これには、ある種の「ファッションの流行」を彷彿とさせるものがあります。

近年、Tシャツのすそを、ズボンの中に入れる「タックイン(シャツイン)」が再び大流行しました。
こうしたファッションの流行も、ただ単に「昔と同じものが戻って来たよ」というだけの話ではないと思います。
純粋なファッション業界とはまったく別のところで、人々の動向が「シミュレーションのデータ」として活用されているはずです。
トップスの裾をズボンの中に入れるスタイルは、職種や場面によっては実用的で、またお腹を冷やしたくないお子さんにとっても、流行とは無関係の定番スタイルとして理にかなっているものでしょう。
しかし、移り変わる流行を意識してそれをやる場合、私たちの動向は格好のシミュレーションの対象にもなり得ます。
タックインが「ナウい」とされていた数十年前の時代は、人々の意識に何らかの概念をすり込む方法は、テレビ・新聞・雑誌・看板・ポスターなどがメインでした。
しかし、現代ではインターネットが主流になり、人々は手にスマホを持ち、1日を通して何かしらのSNSを開いています。
このようになった社会で、人々の意識をどれくらいの「スピード」で変えられるのか?
どれくらいの「情報量」にさらせれば、人の意識は変わるのか?
人々が「嫌だ、やりたくないわ」と拒絶反応を起こしていた「タックイン」の好感度を見事に上げて、積極的に受け入れてもらうには、どんな人物を「アイコン」に設定すると効果的なのか?
さらに、人々が受け身ではなく「タックインしてみよう!こうすれば着こなせる!」と、自ら流布する側に変わるには、どのような経過をたどるのか?・・・
そして、ある日突然「この流行は、そろそろおしまい!」と、ファッション・アイコンが発表するより早く、
「やっぱ、なんかダサいかも。。」
「俺には似合ってねーかも。。」
と、我に返って、積極的にやめる人が出てくるのは、いつ頃からなのか?・・
こういった一連の流れが、ウイルスの流行を社会に浸透させるための方法論や、ワクチンを人々に受け入れさせるための方法論、また個人の自由意思でワクチン推進を広め合う仕組みをつくるための有効なシミュレーションにもなり得ている時代です。
人工ウイルスのネタにしろ、兵器ウイルスのネタにしろ、「このタイプの流行のパターンがあるぞ」と理解しきった人たちを、また何度でも騙せるものではないですが、その一方で、世界中では随時【ワクチンの無意味さと有害さ】に気づいたばかりの人たちが、続々と出続けています。
だからこそ、今にも目覚めそうになっている人たちに向けて、定番の偽情報がしつこくリユース&リサイクルされ、定期的に流行りを吹っかけてくるのかもしれません。

今回、ここで私が改めてご説明した内容は、まさにコメントくださったところに投稿していた内容そのものでした。
なので、「そこにある記事を読まないままコメントを‥?」と、最初はすこしショッキングでしたが、もしかしたらそうではなく、何らかのご事情があったのかもしれませんよね。
お顔の見えないハンドルネームだけでは、お相手のことはわからないことばかりです。
でも決して、気持ちを凹ませたり傷つけたりしたいわけではなく、私もただただ精一杯な中で、本当のことを述べるしかなく、いつもそうなのですが、言われたお相手のことを想うと心苦しい以外のなにものでもありません。
せめて、何かしら得られるものがあったらいいのですが..!
今回のコメントへの返信は、以上になります。
さまざまなことに言及できる、神コメントのご縁をありがとうございました・*☽:゚

最後に、たまに聞かれる質問についても、もしかしたら今回の内容に関連しているかもしれず、この機にお答えしておきます。
「日本人医師」の中で、私が支持している方についてですが、特に1人もいません。
考え方やスタンスに共感している日本人医師の方も、1人もいません。
誰もいないので、特に名前を挙げるまでもないと思います。
正確に言うと、2023年中に、日本人医師の発信する記事や動画のフォローはすべてやめたので、現在どのような発信をされているのか?までは、正直なところ把握していません。
そしてもはや、あまりにも興味を持つことすらできません。
私のこの限られたエネルギーで、まったく眼中にすらない人たちの情報をチェックすることは、なかなか難しいです。
確かに私も、偽パンデミックが始まった初期の頃は、声を上げてくださっている医師のみなさんのことを尊敬する気持ちで拝見していました。
でも、さすがに2022年の途中あたりからは、そうした方々の発信内容を見るたびに衝撃を受け、「ダメだ、全員おかしい...」と気づき始めました。
結局は、以下のような活動家たち(↓)の日本人バージョンが、あらゆるレベル・あらゆるジャンルで活動しており、常に常に私たちに向けて「ある種の情報発信」をしてくる状態です。
一見、いいことを言っているようでいて、やってることは「恐怖」と「アドレナリン」をエサに私たちを惹きつけ、目覚めそうな庶民の頭を天才的なまでに複雑化させ、本当に知るべき貴重な事実から遠ざけているというのが、残念な実情です。
それに気づいたとき、自分もその時点まで「権威ある医師の発信」や「名のある活動家の動向」という類の何かに、どこかしら心理的に頼っていたことをハッキリ自覚しました。
なので、良いことを代弁してくれるかもしれない誰かの発言に頼っていく心情は、よく分かります。
だって、自分の専門分野なんかじゃないのですから。誰だって当然のことですよね。
でも、それまで持っていた自分自身の中の心理を自覚して以来、私は、改めて雷に打たれたように、自分の中で何かが変わりました。
いえ、きっと「変わった」というよりも、昔このサイトを立ち上げた頃の自分の初心に回帰できたのだと思います。
また、「ウイルスは存在しない」といった本を出版していらっしゃる日本人医師がいらっしゃる関係で、「その先生と同じ考えですね?」と思われることがあるようですが、根本的に違っていると思われます。
その点をご了承いただき、「●●医師の書籍を読んでくれませんか?」や「○○医師のブログをもっと読まれては?」的なご意見をいただいても、完全にどうしようもないことをご理解いただけますと幸いです。
* * *
そして、このような話をすると、「分断はダメだよ」とか「横のつながりで対立してる場合じゃない」とか「敵を間違うな!敵は横じゃなく上の権力側だ」とか、あるいは「奴隷同士で対立するな」など、また別のタイプのご意見が持ち上がるかもしれません。
その件に関しても言及しておくなら、
【その1】
まず「対立」は、何もしていませんよね。
眼中にないというだけで、普通に生きているだけです。
【その2】
さらに言うなら、
・敵は誰なのか?
・何が敵なのか?
を、問うてくる概念自体が、もう一つの深刻なトラップだと思っています。
「誰が敵か?」を自覚させ、そんな「共通の敵」に焦点を当てさせることは、実は一番大切なことから意識をそらす効果が抜群です。
実際これは、中国政府などが自国の民をまとめ上げるためによく使う方法で、「敵であるもの」の存在を国外に向けさせ、国内で起こる批判をそちらに向かわせるよう国民のエネルギーをコントロールするためにも使われています。
「敵」という概念が、人々の心の中に生み出す波紋は絶大で、まるでエネルギーの指揮棒を振るうかのような効果があります。
「敵はあっちだ!」
と言われると、人はつい「一番大切なこと」から意識がそれます。
最も大切な、その人その人の「自分の人生のリアル」から、意識がそれるのです。
このような概念は、私たち人間が持つ、本能的で動物的な生存本能をくすぐるものだからこそ、とても効果的です。
いわば、
「分断工作に気をつけろ!
ワナにはまるな!敵は向こう側だ!」
という概念自体が、まんまと別のワナになっているわけです。(あぁ、ややこしい)
正義感に燃えている一般市民に対しては、わざと「分割統治」という概念を覚えさせ、分断工作の仕組みを理解させるための興味深いコンテンツを作って流しまくり、【共通の敵】を強調します。
すると、正義感を持っている人たちの情熱は、いちばん大切な自分の人生のど真ん中には向かわず、「茶番の戦いのリング」へと引き寄せられ、権力メロドラマの分析や、巷の噂の流布活動に忙しくなってしまいます。
私たちはそれをやっていて、「実質的に人生が豊かになるか?」と言えば、一時的にエゴは満たされるかもしれませんが、長い目で見れば、とにかく不毛なサイクルです。

「共通の敵」を意識させる正義感あふれる活動は、私たちの感情を揺さぶり魅了しますが、しかし実際は、そこにエネルギーを向けたとしても、結局なんにもならない場所に引きずり込まれるだけの結果になりがちです。
なぜなら、そのリング上で起こるシナリオの起承転結は、最初から決められている茶番的ドラマであって、あとになれば拍子抜けするほど時間とエネルギーの無駄使いをさせられていたと気づくものだったりするからです。
私たちが意識を向ける価値のある相手は、いつもいつでも自分自身の内側です。
私たちの人生には、1日1日、自分の力にフォーカスすればするほど、確実に実現していける実りあることがたくさんあり、体験できる素敵なことが山ほどあります。
あるべきところに意識を戻した瞬間に、フェイクとは何の関係もないありのままの現実が広がっています。

あなたが何も意識せずとも自然と呼吸を続けられるよう、この地球の営みは、今この瞬間もあなたの命と私の命を根底から支え続けてくれています。
このような無償の愛が、360度から自分に向かって注がれている状態で、その命をどのように使っていくのか?
人生は一回きりですから、どこまで自分の意思力で自分の本質を生きられるか?です。
どこまで大切にできるか、どこまでやれるか、どこまで自分の本質を純化して、体現できるか?です。
そういった本当に価値のあること、ひとつひとつにピントを戻していく力も、今の時代は非常に問われているように思います。
社会の中で声を上げなければならない重要な場面は、もちろん何度もあるにせよ、一方で権力側のどうでもいい動向に対しては「戦う価値などなく、無視するのが一番効果的」という場面も、かなりの割合で多いのも事実です。
権力者が馬鹿みたいなことをやっている最中にも、自分の人生に夢中になったまま、何も戦わなければ余裕で勝てるのに、「茶番のリング」に集められたがゆえに、コテンパンにやられてしまうことさえあります。

戦う価値すらない相手には、意識を向ける必要すらない時も、往々にしてあるでしょう。
時と場合にもよりますが、その見極めが大切なときもあります。
みなさんも、どうぞ人生の一コマ一コマに愛情を注いで、自分の内側を大切に過ごされてされていってくださいね。
ありとあらゆる現実での体験が、あなたの感受性を天井なしに豊かにしてくれますように!

今日もここまでお付き合いくださり、どうもありがとうございました。・*☽:゚
いつも気持ちを寄せてくださる読者様には、心より感謝しております。
厳しい残暑と、なかなか来ない初秋のあいだで、どうか笑顔の時間を少しでも過ごせますようお祈りすると共に、大変な状況に置かれている方々には、普段の日常が取り戻せますよう心より願うばかりです。
Moonのにほん語@Bio Sinfonia
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今回のコメントを最後に、Odyseeのコメント欄を閉じさせていただきます。これまで温かいお言葉や応援のお気持ち、チップまでくださった方々、本当にありがとうございました! 記事や動画のURLをシェアしてくださったこと、本当に感謝しております! みなさん、お一人お一人の優しさや温かいお声がけが、私のがんばる力になっていました!2年後くらいに体調に余裕が出たら、またコメント欄はオンにしたいです。翻訳動画のアップは引き続き続けます!~~~~~☆





















