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心の整理ができるまで

  • 執筆者の写真: Bio Sinfonia
    Bio Sinfonia
  • 4月13日
  • 読了時間: 21分

更新日:4月15日



季節というものには、「記憶」が刻まれているものだなと、つくづく思う。


「どうして今、こんなことを思い出すのかな?」と思ったら


うん、それもそうだ。


あの時の季節が来たからだ。


あの時の気候、

あの時の湿度、

あの時に咲いていた花・・


そんな季節の要素を肌で感じ取ると、ちょうどそのころに感じていた「感情」や「記憶」までも、リアルに思い出すことがある。



特に、


「別にいいんだ、大したことじゃない」


と、自分の中では受け流したつもりになっていたことほど、実際にはいつまで経っても脳裏にこびりついていたりするものだ。





今回は、私が最近、悪夢にうなされていたお話です。 今日は純粋に、自分自身のために綴ります。



* * *


ある日のこと。


Dr.ベイリーから連絡が入った。


なにやら、ある方からメールが来て、「Dr.マーク・ベイリーの『A Farewell To Virology』を日本語に訳します」という、お申し出をいただいたのだという。


それを受けて、Dr.ベイリーは、そのお相手の方に対して「すでに別の人(=私)にお願いしていますので」との旨を、お返事してくれたのだそう。


Dr.ベイリーいわく、「悦子(=私)が快く思わないことはしたくないから」との理由で、私の名前や連絡先などの情報を、お相手の方にはなにも伝えなかったのだという。


なんという繊細な心遣い‥!


私のことなんて、ぜんぜん構わないのに! その優しさに感動しました。


そして、


「逆にもし、悦子がその人とコラボしたいとか、分担したいとか、そんな希望がある場合は、こちらが連絡先になりますよ」


と言ってくれて、お相手のメールアドレスを教えてくれた。


なんという心遣い‥!


それを聞いた私は、コラボや分担はしないでこのまま一人でやっていく旨をDr.ベイリーに伝え、同時にその旨をメールのお相手に「自分で伝えます」と申し出た。


だって、Dr.ベイリーがどれだけ忙しいか?は、想像を絶する。


こんなことくらい、私がそのお相手の方に自分で伝えればいいことだ。


同じ日本人同士、私がご挨拶がてら誠意をもってお伝えすればいいことだと思った。


それに私は、すでに自分の個人情報はコロナ前からネット上で公開済みだった。隠すことは何もない。


いっぽう、Dr.ベイリーから連絡先を教えてもらったその方は、コロナ渦にツイッターで有名になった方で、たくさんのフォロワーさんを抱えていらっしゃる方でもあった。


Dr.ベイリーも、悦子から話してもらえるならありがたい!と言ってくれた。


うん、よかった!と思った。


そして私は、そのお相手の方に対して、次のようなメールを送った。





しかし、このあと私は、悩むことになった。


「このメールの、何がいけなかったのだろう?」と。



私は、引き続き自分が翻訳をやらせてもらえたら、という意思は伝えたつもりだった。


しかし、伝え方がいけなかったのだろうか?


そのお相手の方が言うには、なんと私に「快諾/かいだく」してもらって、自分が翻訳作業をやるのだという。


私は、頭がフリーズした。


これまで体験したことのない文面スタイルに、何が起こっているのか頭が追い付かず、しばしフリーズ状態。。


やっぱり、伝え方がいけなかったのだろうか?


日本人らしく「やんわり」と「控えめ」に伝えてしまったのがいけなかったのだろうか?


私は、悩んだ。


だって、このお相手の方は、一度はDr.ベイリー側から「すでに別の方にやってもらっていますので」と、優しくご遠慮されているはずなのだ。


それなのに、また私から直情的な言葉を言われる必要なんて、さすがにないだろうと思ったのだ。


日本人らしく、これで十分だと思ってしまった。


それに、まぎれもなく本心だった。


ご挨拶になればいいなと思ったし、なにより今後、翻訳する素材がお互いにかぶらないよう連絡を取り合ったりだとか、そういう面での協力の仕方ができるかもしれないから、なにかのご意見・ご提案ならウェルカムだとも思ったのです。


「次からは協力し合いましょう」というご提案が来たら、そういったお話もできるかもしれない。


しかし、お相手の返答は、私の予想の遥か上を超えてきた。


私に「快諾(かいだく)」してもらって、自分が翻訳作業をやるのだ、という話らしい。


私は、きつねにつままれたような気持ちになった。



え、待って、


「快諾」ってこういう時に使う言葉じゃないよね?


と、次に思った。


快諾してくれた相手に、「ご快諾ありがとうございます」と言うのなら分かるよ。


しかし、こちらがそうは思ってはおらず、そうは言ってもいないのに、「快諾して」というのは、言葉のチョイスがちがう気がするし、コミュニケーションとして怖いと思った。


・大変恐縮ではありますが、

・お言葉に甘えて、

・快諾していただき、


と、とても丁寧な言葉が並んでいるのに、私の心はまるで脅迫を受けているように感じた。


なんか、純粋にこわかった。


過剰なまでに丁寧な言葉を使って相手にとても失礼なことを言う行為を、「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」というけれど、それを超えてきている何かを感じた。



私は、「もしや自分の頭がおかしいの?違和感を感じるのは私だけ‥?」と不安になり、旦那さんにも相談してみた。


メールの文面を見た旦那の答えはシンプルだった。


「すごーい‥! 堂々と『翻訳をゆずれ』って言ってるね」


と。


旦那は、鳥肌が立ってこわいと身震いをしていた。


やはり、そうか~・・


相手の言葉が、へんに丁寧すぎるせいで、めちゃ丁寧に「ゆずれ」と言われて、私の脳がバグっているのだ・・・と思った。


だけど、私はショックだった。


日本人相手に、日本語が伝わらないなんて!こんなことって、あるの?!と思った。


「英語で外国人と意思の疎通はできるのに、日本人相手に日本語が伝わらないなんて、ショック!


と、半ば放心状態の私に、旦那さんは意外な言葉を返してきた。


「え。でも、このかた中国人だよね?」


と。


はい?


「お名前が、中国人のお名前になってるよ」と、旦那さんは続ける。


ええぇええ?と思った。


そうなの?

そうだったの?


ネット上では、カナダにお住まいの方であるというプロフィールが公開されていたので、てっきり西洋のお名前を持つ日本人かと思い込んでいた。


しかし、Dr.ベイリーから教えてもらったお名前は、ローマ字で書かれていたものの、旦那から読み方とその漢字を教わると、あぁ、なるほど中国のお名前なのかなと初めて気が付いた。それを、カタカナ表記だったり、ローマ字表記することによって、ちょうど西洋のお姫様のような名前の響きに感じられる。


なるほどなと思った。


私はてっきり、お相手がネイティブの日本人だと思い込んでしまって、いかにも日本人らしいやんわりとした表現で伝えてしまったのだ。


そのために、自分の欲しいものをストレートにつかみに行く中国スタイルとは正反対のコミュニケーション方法になってしまったかもしれず、私の日本語的なニュアンスが伝わらなかったのだろうか?・・と、ちょっと反省もした。


相手のメールの文面に違和感を覚えたけれど、もしかするとお相手の方はそこまでの「ネイティブ日本人」ではなくて、「日本語がペラペラな国際人」という可能性もあるのかも?‥と思えば、こうなってしまった理由はそれなのかな?と思うこともできた。


また、私は念のため、相手が「超天然でいらっしゃるのかも‥」という可能性も考えてみた。


天然がゆえに、私からの日本語メールも、Dr.ベイリーからの英語のメールも、その意図をくみとれず読み違えているのかも‥?・・という可能性も踏まえて、再度はっきりと「私もこのまま翻訳を続ける」という旨と、「日本語版が2つ出るということになりますね」ということを、確認も兼ねて書いてみた。


すると、天然で言っているのではなく「本気」で言っているのだということだけは、お返事から伝わってきた。



なので私は、それもポジティブに捉えることにした。



おそらく、これは文化の違いであって、私は人生初の貴重な「中国スタイル」を体験させてもらっているのかもしれないと。


もしかすると、単に私が「中国のビジネス・スタイル」について無知だった!というだけのことかもしれない・・


わからないけど・・。


もちろん、私自身としては「ビジネス」のことなんて頭によぎったこともないけれど、そのお相手の方が翻訳家とあらば、責めの姿勢でお仕事に繋がるコネクションを取りに行く習慣もあったりするのかもしれない・・


わからないけど・・と。



そして、日本語版が2つ出ることも、ポジティブに捉えよう!と思った。



私は私で引き続きやっていくけれども、大量のフォロワーさんを抱えるその方が、ご自身のフォロワーさん達に向けて訳を発表することはいいことだよね☆彡と、本心で思えた。


なにしろ、その当時、私のところの情報を見に来てくださっている方は、かなりの少数派だったのだ。


だけど、その方ならば大きな影響力があるし、いいことだろう!と。



それに、このお相手の方は、「自分の勉強のために途中まで翻訳していた」とおっしゃっていた。


ご本人の勉強のために、その方自身が何をどんな風に勉強しようと、それはそもそも個人の自由なのだから、その勉強法について私がとやかく言う筋合いなど何もあるまい◎と素直に思った。



いろいろびっくりしたけれど、ひとまず前向きに捉えられた。



私は、Dr.ベイリーに「メールした結果、私がこのまま一人で続けたいという希望がうまく伝わらず、予想外にも日本語版が2つ出ることになりそう」との旨を伝えた。


プラス、「でも彼女は日本ではとても有名な方なので、たくさんの人に広まるのは良いことだと思う!」という点も、あわせてお伝えした。


Dr.ベイリーは、「そっかー、でも彼女に伝えてくれて、トライしてくれてありがとう!」と言ってくれた。



 * * *



しかし、その数カ月後。


私は愕然とすることになる。



驚いたのは、そのお相手さんの翻訳版が公開されてからのことだ。


私よりも早く、そのお方はDr.ベイリーに翻訳を提出されたようだ。


そりゃそうだろう。

そうだろうなと思った。


「自分の勉強のため」であっても、やっぱり提出はするものなんだなと改めて思った。


もし私が、「自分の勉強のため」に翻訳していたなら、それをわざわざ「著者にお知らせする」という斬新な発想は湧かない。自分の本棚にしまって、ときどき見返せば、とても勉強になる。それまでだ。


万が一、翻訳しているうちにテンションが上がってしまい、「この訳が人類の役に立つかも!」という期待がふくらんで著者にご連絡してしまったとしても、著者ご本人から「もうほかの人にお願いしているから」と言われたなら、私だったら「そうですか、それは良かったです!」と我に返って、その後も著者に提出することはないだろう。


しかし、それは私の感覚であって、「自分の勉強のため」という姿勢も、こんなにも人それぞれ違いがあるのだな、と世界の広さを知った。


いずれにせよ、その方がDr.ベイリーになんと言って訳を提出したのかは分からない。だけど、そうやって提出したものが、Dr.ベイリーのHPに掲載されたことを、噂で知った。


閲覧者数は、すごい数に上っていた。


それは、よいことだと思った。


HPに掲載されたことも、よいことだと思った。


初めてショックだったのは、実際にその「中身」を見た時だ。


頭を殴られたような衝撃を受けた。


・・訳がすごい。


私は、そこで初めて青ざめた。


専門用語もすごい‥


いろいろなことが、お腹にガツンと響いた。


しかし、前半部の難しい専門用語は、不思議と私が公開していたものと同じものが使われている部分も目に付いた。(私はその時すでに、第2部までの訳を自分のHP上で公開していました)


私が調べるのに何日もかけてやっとわかった難しい表現、辞書には載っておらず独特の調査を必要とする部分・・


そういった部分が、私と同じ表現が使われているのが目に付いたものの、私がまだ公開していない後半部になると、それと同じ用語がなぜかAI翻訳で出てくる機械用語へと戻ってしまっている不思議。。。


胸がざわついた・・


読む人が読めば、「前半だけ用語を抜き取ったのかな?」と変に勘ぐられてしまう可能性だってあるのだから、そうじゃないなら作品全体を通して用語類は一貫しておいた方が良かっただろうに・・・なぜこのようなことに‥?


と、想像してはいけない諸々が、よぎりそうになる気持ちを振り払う。。


自分が同じものを訳しているからこそ、いろんな意味で青ざめた。



 * * *



いずれにせよ、私は焦った。


これが日本中に公開されて、その道の科学者や専門家が読んだときに、Dr.マーク・ベイリーがばかなやつだと思われたらどうしようと焦った。


だってこれは、あくまで「専門家向け」、エキスパート・エディションなのだ。


ちゃんとしないといけないだろう。


日ごろから論文を書き、論文を読み、実際に専門の機材を扱ってそれに取り組んでいる人たちが読んだときに、笑われてしまうような内容であってはいけないはずだ。


私は、一日も早く翻訳を完成させたくなり、スピードアップさせた。


非常に焦っていたとおもう。


前々からDr.ベイリーには、「まったく急いでいないから、ゆっくりで大丈夫だよ」と言われていたけど、状況が変わってしまった。


私は焦った。


本当は、最低でもあと1カ月くらいかけて仕上げたかったけれど、この状況が私を極限まで焦らせた。


素人さんや一般人の方が読む分には、「いい訳だ、すばらしい!」と思う人もいるかもしれない。


でも、専門家が読んで、マークという人物が誤解されたらどうしよう・・・そう思うと、なんとも言えない悲しみが胸に広がった。


そんな悲しみを打ち消すためには、さらに無理をして早く進めるしかなかった。


Dr.ベイリーのHPには、すでにその方の訳が掲載されたようだし、その方がツイッターで正式に発表したわけだから、おそらく私はもう「用済み」ということになったのだろう。。。うん、たぶん、そうなのだろう。


そう思った。


何があったかは知らないけれど、「これはきっと、そういう意味ってことかな?」と予想するしかなかった。


だけど、それでも構わない。


Dr.ベイリーと話して始めたことではあったけど、これは私自身が【自分の意思】でやると決めたこと。


とにかく、私は私で、自分のHPに掲載することを目標に、やり切ろうと思った。




ただ、私は電磁波やLEDがとても苦手だ。



その日の自分のさまざまな仕事が終わったあと、夜の23時すぎくらいからようやく翻訳作業に取り掛かれる。その日の活動を終えるタイミングは、自分の体の限界が来るまで。あるいは目の痛みの限界がくるまで。


これを翻訳するために読んだ論文の数は、何十本だろうか。


しかも、何十本というのは、頭から最後まで「通し」で読んだ論文のこと。専門用語や言い回し、技術の確認のために部分的に読んだものなら、数えきれない。


きっと300本、400本どころじゃない。

というか、3桁じゃないかもしれない。


1日につき、毎日10~30本ほどの論文をダウンロードして、用語や表現や技術的なことを確認して、自分の中で消化し終わったらすぐゴミ箱に入れて消去する・・・そうやって次の日を迎える・・というサイクルを繰り返していた。


パソコンのデスクトップにある技術論文のPDFを、翌日には持ち越さず、目を通して消去してから眠りにつくのが日課になっていた。


単純計算でも、考えたくないほどの数に向き合ってきたとおもう。


私にとって、パソコン作業は肉体的に楽ではなく、限界を超えると震えが止まらなくなったり吐き気があがってくることが多々あったけれど、その日の精一杯をやらないことは、精神的に耐えられないものがあった。


どうしてか、なんでか、そこまでやれてしまった。


その理由のひとつは、きっと別にあったのかもしれない。


私には、これまで「大切な友達」という存在がたくさんいたはずで、それがコロナをきっかけに、彼らとはもう「別の惑星の住人なのか?」というくらい、心が散り散りに離れてしまった。


その感覚が、常に、私の意識の背景に横たわっていた。


いくら誠心誠意、声をかけても、宙に消えて届かない。


私はきっと、少なくとも「頭がやべーやつ」と思われているか、「悦子は残念ながら陰謀論者になってしまった」と引かれているか、「ワクチンが広まるのをじゃまする愚か者」だと白い目で見られているか、そんなところだろうという自覚はあった。


かつては何でも話せた仲間だったはずなのに、いつの間にか自分だけが別の宇宙にいる。


なかには、とても親しかった仲間で「コロナ死」ということになって突然死してしまった友人もいる。


そんな現実を知っても、私はただひとりで号泣するくらいしかできない。


コロナへの憎しみを胸に仲間のみんなで悲しみを分かち合う時間、亡き友をしのんで集まる時間と空間に、私がそこに一緒に集うことは、もう二度とないのだ。


こんな活動をしている私を、憎んでいる友人もいるだろうと肌で感じることもある。


それでも、まったく構わない。


自分が変態だと思われても、悪人だと思われても、そういうのはさほど痛くない。


「自分はそういう人間ではないよ」と自分自身がわかっていれば、それで十分だからだ。


そこではなくて


大切だと思っていた愛しい人たちが、嘘をいいことだと信じ、自分や家族や周囲を傷つけ、善意の名のもとに「命の自然」を破壊し続けているのは、やはりとてもやるせない気持ちになる。


そんな残酷な現実を思うと、やはりすごく込み上げてくるものがある。


だから、そのギャップを埋めるものとして、私はこのような活動を止めることができなかったのだろうなとも思う。


いつかみんなが、ありのままの事実に興味を持ち、少しでも心を開いてもらえるきっかけになったら。


いや、「みんな」じゃなくても、「1人」だけでも立ち止まってくれる人がいたら。


そんな願いが、自分を深い部分から駆り立ててきたのかもしれない。


だからこそ、自分の意思で口を開くときは、ちゃんとした情報を伝えることに、責任を感じる。



***



そして、その後。


私の翻訳版を公開した後も、心がすり減ることがあった。


おそらく日本のこうしたコミュニティ界隈では一番くらいの有名な方が、私の訳について批判しているという話を人づてに聞いた。


人づてです。


なぜなら、普段はそういう情報は、自分からは見ないようにしているから。人に言われて、確認のために見ることはあっても、心がすり減る世界には自分からは入ってはいかないようにしている。


だからこそ、何かのはずみでこのようなことがあると、自分にとっては悪夢にうなされるくらいのインパクトがあるんだなと思った。


それに関連した内容は、当時こちら↓に書きましたが、


今でもこの記事は、胸が痛くて「読み返せない‥」と思っていたほど。(そんな記事、書いてすみません。。)





この季節、こういった記憶が私の脳裏に次々と浮かんできては、悪夢にうなされた。


「え、なんで今頃‥?」


と最初は思ったけれど、そうなってみて初めて気が付いた。


あの時は、いろいろなことが重なって、自分が思うよりも、きっと心が辛かったんだなと。一年以上も過ぎてから、ようやく気づく。


きっと私は自分が思うよりも、本当はすごく悲しかったし、傷ついていたし、いろんな意味でショックだったんだと思う。


頭も心も混乱しながらも、もくもくと自分のできることをやっていた時に、また別方向からも批判らしきものが入る・・それをまた誰かから聞く・・


影響力のある有名な方が批判をすれば、それに賛同する人たちも同じような思考回路を育て、同じ批判を始めるかもしれない。


人は、正しい情報を信じるのではない。


確信がある強い言葉を信じてしまう生き物だ。


あの瞬間、私は深く悲しかったんだなと、改めて気が付いた。



 * * *



それで。


このことを自分の中で消化するにはどうしたらいいか?と思った時に、やっぱり「しっかり思うこと」が大切だと思った。


「感じていたはずのことを、しっかりと感じること」


感じていたはずなのに「大したことではない」と受け流していた感情を、ひとつ残らずしっかり味わって、そして手放すこと。


手放すためには、「文字に残す」くらい、はっきりと表面化させる必要があるなと思った。


そうしないと、やがて忘れたつもりになっても、ほとぼりが冷めたころにまた悪夢を見ることになる。


だから、自分のノートを広げて、文字に書いてみた。


すると、胸のつかえが取れてきたのを感じた。


本当のことをありのままに思う気持ちって、やっぱりすごい。


胸のつかえが取れると、また前に進める気持ちが湧いてくる。



ただ、書き終わっても、それでもまだ「何かが欠けている」と思えた。


この自分の中にある「重い感覚」は、自分のノートの上だけでは下ろすことができない荷物だと気がついた。


それで今回は、この場に表現してみようと思いました。


1人でもいい。


私の活動を遠くから見てくれている誰かに、思いを共有してみよう。


あのとき、自分の中で何があったのか?を、今日はここに書き残してみよう。


ちょっぴり勇気がいりましたけど


おかげで、またすこし、心が軽やかになりました。





人は、胸のつかえが完全に取れているとき、「自分が何者か?」を自分でよくわかっている心理状態でいられるのだと思います。


自分がどういう人間か?を、自分でわかっていられる状態が、自分自身へのひとつの愛のかたちです。


そういう状態であれば、前に進んでいく力もパワフルで、すべてが軽やかです。


しかし、そこに何かの拍子で、何らかの胸のつかえのようなものが生まれると、「自分が、自分を見る目」というものに、ちょっとだけ霞がかかるのです。


フィルターのようなものが、かかる。うすい膜のようなものが、かかる。


その霞のようなうすい膜が、「自分が、自分を見る目」を曇らせ、だんだん自分のことがわからなくなり、一歩ずつ歩みが重くなってしまう。


そんな胸のつかえがたくさん集まれば、何かがすごくこじれたようになって、どこから手を付けていいのかもわからなくなることもあるかもしれない。


だけど、大丈夫。


どんな小さなものでも、一個ずつ見ていけばいいのだから。


どんな「一個」も、とても大切で、とても価値がある。


どんなに小さな小石も、「地球の断片」で、地球のことをよくわかっているように。どんなに小さな胸のつかえも、「あなたの断片」で、あなたのことをよくわかっている。


だから、一個ずつ、少しずつ。それで大丈夫。十分に大きくて価値のあることだ。



話は戻りますが、私の翻訳版は、その後 Dr.サム・ベイリーのHPに掲載されました。


Dr.サムからは、「悦子のができあがったなら、その時はもちろん使わせてもらいます!」と、あの後に言われました。


どんなやりとりがあって一度は別の翻訳者さんのものが掲載されたのかは、私には分からない。


だけど、「自分はもう用済みだ」なんて思ってしまったことを、一度でもそう思い込んでしまったことを、申し訳なく思った。Dr.ベイリーはそんな人ではなかったのに。いつも、すごくあたたかい言葉をかけてくれるのに。


私はまだまだ、この「翻訳」という分野において、自分自身の存在の自信のなさと、内側で戦っているのでしょうね。


翻訳の世界では、おそらく私は野良犬のようなもので、誰も名前も知らない原生林の雑草のような存在で、それを含めて自分自身のことを誇りに思うためには、「自分が思っている自分の評価」を少しずつ確実にしていけるよう努力を続けていくしかないのだなと気づかされます。


自分という厳しい存在に認めてもらうために、ひとつひとつ努力を続けて、幻想ではない「自分を信じる自信」と一心同体になっていけるように。


そして、「自分が、自分を見る目」を、自分の弱さで曇らせないように。


だから、まだまだ先は長いです。


翻訳の奥深さを学ぶことは、生きている限り終わりがないのでしょうね。


言葉には、その言葉を放った人の人間性が、誠実に現れているものです。


これまでの人生・これまでの生き様が詰まった結晶として、そこにその人自身の言葉が現れ出ているのを感じます。


だから、人の言葉には、こんなにも魂がこもっているのでしょうね。


なにげない言葉でさえ、魂の断片がいろんな色で光っているのが見えます。


だからこそ翻訳をするのであれば、「おはなしの意味」が合っているのは当たり前の基本として、そこには【その人の人間性】もちゃんと反映された表現を、できる限り選びたいなと切に願ってしまいます。


そういう意味では、翻訳者は「翻訳者自身のエゴや個性」を堂々と訳に乗っけていては、まずいだろうねと個人的には思うところです。


乗せようとしなくとも、自分の癖や個性・隠れた性格などが自然と乗っかってしまうことは、人間だもの避けられない。避けられないこそ、なるべく自分は【透明な筒】であれるように努めたい。


目を閉じて、言葉を放ったその人の意識に、静かにチャンネルを合わせることを忘れないように。



文字を通して、遠く離れた誰かの心にチャンネルを合わせることも、目の前に実際にいる身近な人の心にチャンネルを合わせることも、日ごろから誰もが何気なくやっていることで、人と人とが心を通わせるための本質・真髄は、きっとすべて同じなのでしょうね。




Dr.ベイリーの「A Farewell To Virology」は、またいつか本腰を入れて改訂版をアップデートしたいなと思っています。


専門用語や技術用語は置いといても、きっと今見直したら「もっとこう改善したい~~!」という部分が山ほど出てくると思います。


それくらい、私はこの一年でまた少しずつ変わってきたと思います。


こうして1年前の自分を振り返ってみて、あの頃よりも自分は確かに変化したな、今ならもっといい訳ができるな、と過去の作品たちを見て思うけれど、この変化を「成長」と呼ぶには、まだまだ足りない。


「うん、本当に成長したな」としみじみ喜べるように、そう思える日が来ることを目指して、これからもやっていこうと思います。


きっとそうなった時に初めて、私の中にあった数々の痛みも、癒えるなり変化するなり別のものになって、本当の意味で【魂の糧】になってくれるのだろうと思います。




とりとめもない文章になってしまいましたが、今日もここに来てくださり、お読みくださいまして本当にありがとうございました。


あなたの中の数々の痛みも、数々のかすり傷も、あなたが輝くための「糧」となりますよう、私はこの地球の片隅で、心より願っていますね・*☽


(Etsuko)





今度こそ、あせらずに。

あせらないけれど精一杯の最善と最速を。

ちょっと時間はかかりますが、日本語版を手に取れるその日を、どうか待っていてください・*☽

こちらは「専門家用」ではなく、一般向けに書かれた書籍なので、ずっと読みやすい内容になっています!
こちらは「専門家用」ではなく、一般向けに書かれた書籍なので、ずっと読みやすい内容になっています!

 
 
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