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ひとつであることを自覚していく

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すべては「ひとつ」に繋がっています。
すべてが「ひとつ」の中で営まれています。
地球という大きなスープの中で、大小様々な生命体が、自然の”理”に則って、うごめいています。
菌類も、鉱物も、植物も、動物も・・・すべてのものが人間の知力の及ばぬところで、密接に繋がりあっています。

自然は人間の「資源」ではない

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わたしたち人間は、純粋な生命体を “生命そのもの“として尊重する前に、「それが利益になるかどうか?」「人間の経済活動に役立つのか?」という視点で、”資源“ というレッテルを貼ってしまいがちです。


しかし、地球そのものが『生命』であるように、わたしたちが「資源」と呼んでいるものの全ては、本質的につきつめていくと『生命』です。


「資源を大切にね」
 

とは、わたしたち人類のスローガンのようなものですが、「大切に消費する」ことばかりに気を取られ、“それらの存在そのもの”を大切に尊重し、大切に扱うという視点と姿勢を、そもそも欠いてしまっているのが現状です。

あるものが「たっぷりあるから沢山使ってよい」とか「少ししかないから希少価値がある」・・という考えは、人間の”経済活動”の中でのモノサシに過ぎません。
 

わたし達は、たったひとつの空と、たったひとつの海を、生命の垣根を越えて、皆で共有しています。
全てのものの在り方が繋がり合い、全てのものの動向が影響し合って、この地球の健康が保たれています。

 

生命の真価は、それが「それである」こと。
 

水が「水である」こと。 
地球が「地球である」こと。
人が「人である」ことです。

 

美しい水や、澄んだ空気はあまりにも貴重な存在であり、失ってはいけないかけがえのないものす。


澄んだ心は、とても貴重なもので、本来のあなたらしさは、失われてはいけないかけがえのないものです。
 

わたしたち一人一人の中には、世界の人々の心と行動が、「ひとつ」という源を通して流れ込み、浸透しています。
全てのものには計り知れない価値があり、人知では推し量ることのでき
ない存在意義が秘められています。

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「生きること」とは何か?を知る

「あなたにとって”生きること”とは、何ですか?」と聞かれたら、あなたは何と答えるでしょうか?
仕事に打ち込むことでしょうか?お金を稼ぐことでしょうか?

生き甲斐に没頭することでしょうか?愛する人と過ごすことでしょうか?

『生きること』とは、なにより呼吸をすることです。


お水を飲んで、ご飯を食べることです。
排泄をし、眠ることです。

そして、それらを延々と『繰り返すこと』です。

「生きること」とは『繰り返すこと』です。

元来、その『繰り返すこと』の中にこそ、『生』を営む醍醐味があり、感動があり、愛を感じる瞬間が十分に詰まっていました。

しかし今、多くの地球人が、その『繰り返すこと』に対して、醍醐味や感動を感じなくなっています。
まるで、歯を磨く習慣を行う時に、そこに別に何も感じないように。

なにより、感覚が鈍磨してしまう理由は、『自分が生かされていること』に自ら参加できていないためです。
”自分のこと”を「自分でやれていない」ということに、気付くこと自体が、とても困難になっています。

土を耕し、自分が生きる為の食物を自ら得る人が少なくなっています。森を歩き、自分が消費するエネルギーを自ら得る人が少なくなっています。自分の排せつ物を自らの手で大地に還すことなど、めったにあり得ません。

そして、毎日毎食、口にする食べ物や飲み物の背景に、一体どれほどの生命が折りたたまれているのか?を、思い巡らすことさえ出来なくなる時、わたしたちは機械的に口にモノを放り込みながら、『自分が生きること』に自ら深く参加することが、ますます困難になります。

『自らが生きること』に取り組めない時、人は他の分野に感動を求めざるを得ません。

 

“感動”は、人間を人間たらしめている、ひとつの大切な要素だからこそ、心を動かされる”何か”を、自己の外に探さずにはいられないのです。

あらゆるモノ、あらゆる空間、あらゆる催し・・と、感動させられる何かを追い求めていきます。

   
しかし、私達にとって本当に必要なものは、新しい刺激や新しい物質ではなく、もうすでに持っているはずの内なる叡智と繋がること。毎日の日常に当たり前のように満ちあふれるている『生』の醍醐味を知り、生命の愛に繋がることです。

足ることを知る先人達は、自分にとって『本当に必要なもの』と「そうでないもの」とを、明確に理解していました。


「本当に壊す必要があるものなのか?」「本当に生み出す必要があるものなのか?」という、自分への問いに対する明確な答えを、自己の内側に持っていました。

「この選択は、地球のすべての生命にとってどうなのか?」「100年後、500年後、そして”永遠”にとってどうなのか?」という視点で、自らの人間活動の真価を捉える叡智と強さを持っている人間たちが、かつてのこの地球に存在している時代がありました。
 
わたしたち現代人は今、有り余るほどのあらゆるモノを手に入れています。

 

その叡智と強さを除いては。

「奪うこと」で生かされている

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人間という生命体は、他の生命たちから「奪う」ことによってのみ、生き長らえることができる生き物です。
森の中に、たくさんの動物や鳥たちが住んでいるように、たった一本の木の中にも、無数の虫たちが生息し、小動物の住処が構築されています。
世界には様々な国々があり、それぞれの街には様々なコミュニティがあるように、土の中の世界の中にも大小さまざまなコミュニティがあり、無数の生命体が暮らし、うごめいています。
それぞれのフィールドに、それぞれの宇宙が広がっています。
人間は、それらの生命を奪うことで、エネルギーをもらい、身を立てて生きています。
そもそも人間とは、何かを奪わずには生きることができない生命体です。

奪っている実感がない時、生きている実感がない

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例えば、自らの素手で土を掘るという事は、自らの肉体と精神を持ってして、”奪っていく過程”に参加し、その現実に直面するということです。
自分の食べる物を、自分で"創造する”という過程においては、土の中のコミュニティに対して、自分で”破壊していく”という側面に向き合うことになります。

 

どんなに他の生命体のことで思いやった方法でも、基本は「奪うこと」と「奪われること」の間で成り立っています。
「自分は奪うことによって、あらゆる生命体に生かされている」という根源的な自覚を持つことこそが、数々の生命に対する敬意と感謝に繋がり、そして生への感動に繋がります。

 

その自覚と実感の中で、尊敬と感謝が育まれ、自分のもたらす破壊の過程には愛が満ちあふれ、そこにはまた新たな宇宙が創造される感動でいっぱいになるのです。
 

命と命の絆が分断された、「何かを奪っている自覚がない」という心理現象は、人間をどこまでも傲慢にさせるだけでは終わりません。

「何かを奪っている自覚がない」ということは、「生きている実感ない」ということです。

そして、「感動がない」ということです。

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システムを作り出し、システムを維持しているもの

自分のことが自分で出来ないのは、「こういう時代だから当然である」と感じられるかも知れません。
「すでに、そういう社会システムが構築されてしまっているから仕方ない」と。


では、そのシステムを”作り出したもの”とは、一体何でしょうか・・・?

それこそが、人間の『夢』です。
そして、人間の「欲」です。

理想や願望、「もっとこうなりたい」「皆がよりよく食べられるようになりたい」という、希望や憧れに満ちた想像力です。それらの想像力が発想を現実化させ、効率よく助け合う仕組みを編み出し、編み出された仕組みを定着させるべく「システム化」されました。

最も大切なことは、それらが「よかった・わるかった」「必要だった・仕方なかった」と批判や解釈をすることよりも、自分が生かされている世界の状況を理解すること。そして、先人達には敬意と感謝をささげること。

そして何より大切なのは、今現在の自分自身と、今現在のこの時代が、一体何を抱いているのか?を、しっかりと自覚することです。

なぜなら、このシステムを今もなお「固定」させているモノが、今現在の私達の「過ぎたる欲」や「惰性となった欲」に他ならないからです。
このシステムを「維持」しているものは、“豊かさらしきもの” や ”便利さらしきもの”を手放すまいとする人間の惰性的な「欲」であり、失うことへの「恐れ」です。    

経済活動の中に根付いた「大量生産⇒大量消費⇒大量廃棄」のシステムは、「大量生産⇒大量消費⇒大量リサイクルと大量廃棄」という何の解決にもならない偽善的な仮面へとシフトしながら、名目をすり替え、根本的には何も変わらないまま、惰性を維持し続ける社会を選択してしまっています。

 

わたしたちは今、率先してその惰性的なシステムから抜け出し、真の地球生命体としての誇りを取り戻すターニングポイントを迎えています。

先人たちが抱いた夢や願いに思いを馳せながら、現代のわたしたちは、一体どんな夢を見ることができるでしょうか?

 

わたしたちの未来は、今この瞬間に一人一人が何を夢見るか?ということにかかっています。

科学や文明の発展と共に

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これまで地球人は、科学や文明やテクノロジーの進化に寄り添うかのように、常に「欲」をも肥え太らせてきました。

しかし、本当にわたしたちが育むべきものは「更なる欲」ではなく、進化していく文明に見合うだけの成熟した精神性です。

心の分野である精神性を、それに見合うよう成熟させなければ、自らがつくり出した文明によって世界を滅ぼします。

 

神の成熟がなければ、世界に新しく生み出される恩恵の数々も、全ての人々にとってよりよく使われることも、より平等に行き渡ることも、あり得ません。

 

そして誰もが、尽きることのない欲を満たすための”何か”を欲しがり続けるものの、そんな「​更なる欲」が十分に満たされることすらあり得ないのです。

 

なぜなら、そのような「欲」自体、空虚な幻想であり、虚像だからです。

虚像は”虚”であるからこそ、満たされることを知りません。

わたしたち本来の、”実”の部分である、本物の生きた感動や醍醐味は、虚像の中にはありません。

『生』への実感、生きることへの感動こそが、わたしたちを内側から根本的に満たすことができます。

今こそ、わたしたちは本来の知恵を磨き直し、生きる力を育て上げ、一瞬一瞬、心底満たされる事を知る、愛に満ちた生き方を選択する時に来ています。

 

心が十分に成熟した時こそ、科学も哲学も医学も宗教も、それらが全て同じ故郷である”ひとつの懐”に辿りつくことを、知ることができるのです。

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地球生命体としての原点回帰

バイオシンフォニアでは、「欲の持続可能」を目指すのではなく、地球に生きる人間としての誇りを思い出し、生きることを学び直し、それらを日々の中で体現していくことを目指します。
 
地球において、人間全体が「本来の人間らしさ」を取り戻すように、自分自身というひとつの星が「本来の自分らしさ」を取り戻すことを目指します。バイオシンフォニアの自己統合では、地球という愛の星と、自分という愛の星を、調和・統合させていく姿勢を大切にします。自分自身を深く知ることこそが、自分にとって「必要な欲」とは何なのか?「過ぎたる欲」とは何なのか?を、知り得る手段となります。
 
さらに、地球上のあらゆる生命体との調和を見据えた人間活動とは一体何なのか?を、生きながら学んでいくことを目的としています。
そして、学んだことを日々の中に根付かせていく知恵と強さを磨いていきます。

そのためにも、自分自身という小宇宙に対して心を開き、自分の『本当の喜び』を知る大切さを学び合っていきます。
同時に、自分自身のマクロ版である「地球」という深淵なる世界を、深く学び感じることのできる感性を共に育てていけるよう、日々努力してまいります。どうぞ一緒に学び、支えてください。
 
バイオシンフォニアでは、「自分が生きるとはどういうことなのか?」そして「地球という星に立つ自分は何者なのか?」という学びを深め、愛とは何か?を感じるための体験を創造していくことを、喜びとしています。

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地球のすべての、宇宙の全ての、愛する仲間達へ
2012年3月 満月に寄せて

Bio Sinfonia

地球賛同人の皆さまへ

ご賛同くださる地球人の皆様は、もしよろしければサインをお願いいたします。

<サインの方法>

目を閉じて、イメージの中で、
自分が思う「今現在の地球」をイメージしてみてください。

そしてそこに、自分が思い描く『愛』の息吹を、吹き込んでみてください。
深い呼吸と共に、イメージの中で、思う存分『愛』に満ちた地球を描いてください。

呼吸をするたびに、あなたの愛が、地球に刻まれていきます。


*   *   *


次に、生活の様々なシーンの中で、
ふとした瞬間に、自分自身にこう問いかけてみてください。

《もし、自分が『愛』だったなら、どうするだろうか?》と。

そして、内側から答えが返って来るのを待ってください。
返ってきた答えが気に入ったら、どうぞその通りに行動してみてください。


*   *   *


これらのことを、ふと思い出した時に、繰り返してみてください。


わたしたちは、愛という絆で、いつでも繋がっています。

 
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